ベートーヴェン 交響曲 弟九番 ニ短調 作品125 合唱

『第九』

 

 を歌うなんて もういやだ
 と思ったのは 年の暮れ 日比谷公会堂
 拍手を受ける放心状態の舞台上だった

 その日 小学校の学芸会 「笠地蔵」
 の地蔵にでもなるかのつもりで
 黒のスーツを着 家を出た

 あんなに練習したんだから大丈夫だろう

 着くと 女性達は白のブラウス 黒のロングスカート
 
 開場時間になる
 合唱団員は第二楽章の終わり迄 脇の通路で待つ

 やがて開演となり
 オーケストラの音が聞こえてくる

 
 
「第一楽章」

 地球の創世紀を思わせるかの様に 音を探し始める
 暫し後 雷が落ちるが如く響くオーケストラ
 水を創るかの木管楽器
 それらが交互にやってくると また音を探す
 そして雷鳴  繰り返し 繰り返し

 
 
「第二楽章」

 弦楽器のせっついた四音の後 ティンパニが響く
 心臓の鼓動を遥かに超えるアップテンポ
 強く また静かに
 それらが交互に ステージの袖で待つ合唱団に襲い掛かる

 繰り返し 繰り返し

 
 
「第三楽章」

 合唱団員が入場する
 決められた立ち位置で前を見る
 
 指揮者と聴衆がこちらを見
 タクトが降ろされる

 静かなロングトーンが始まる

 「あれっ」 第二楽章の軽快なリズムが耳に残っている私は
 「何だこの曲は 何十回も聞いた筈なのに 初めての感覚だ」 
 と心の中でつぶやく

 リズムが無い
 音符と々々がタイやスラーで繋げられ 切れ目が無い

 立っているのも苦しくなってきた
 音に身体を合わせられない

 心と身体を何に合わせたらいい
 前後に身体を揺らし 捜す
 ただひたすら 捜す

 心音が聞こえてくる
 私は呼吸し心臓が動いている ただそれだけだった
 
 倒れないようにしなくては

 いつ迄も続く苦しみ
 ふと 終わりを予感させる様なフレーズ
 しかしその直後 また私を裏切り リズムを無くす

 もう限界だと思った時 本当の終章が聞こえてきた

 助かった
 それだけでした

 
 
「第四楽章」

 雄叫びなのか はたまた吐血するかの様な
 切り裂くオーケストラで始まる

 そして雄叫び 吐血を聞いて
 ベースが胡散臭そうに身体を鳴らす

 やがて第一 第二 第三楽章のフレーズが流れ
 その度にベースが否定する

 おもむろにベースが主題を弾き出す
 単調に 一音 一音 大切に
 大洋の浪を表現する
 
 各楽器がその端的な美しさに賛同し 順番に奏でていく
 そして全オーケストラが響かせる

 一瞬の間を置いて
 また あの雄叫び 吐血が
 そこでバリトン ソロ
 「おお友よ この調べではない」
 さらにソリストは賛同を求める
 
 合唱団のトップを切って
 私達のバスが その緊張で渇き切った喉から声を出す
 たった二言
 「フロイデ」 「フロイデ」 (歓喜) (歓喜)
 そこでバリトンソロは あの主題を歌い出す

 賛同したソプラノ アルト テノール バスの合唱団が続く

 石炭をくべ 水蒸気を作りタービンを回す蒸気機関車の如く
 ソリストと合唱団は音を走らせる
 そして オーケストラと歌唱の両輪は轍を後に残す

 眼下に目を向ける
 そこには来たるべきオーガズムを迎えるために
 オーケストラの弦楽器群の弓達が慌ただしく上下する

 
 一瞬の静寂の後
 「歓喜の歌」が響きわたる
 
 清く 高らかに
 大海の波は 激しく うねる

 
 歌い切った間もなく 合唱団と宇宙の対話が始まる
 様々な星座に 強く 赤裸々に 問いかける
 そして一番遠い星に向かって 訴えた

 とその時 地球上の
 あらゆる差異を表現するかの様に
 ソプラノ アルト テノール バスの合唱団が
 フーガ(この場合 第一主題と第二主題の対唱)を叫ぶ

 混濁のリアリズムが強く 激しく
 差異を告発するのか
 己の精神と肉体の矛盾を葛藤するのか 
 過去に 現在に 
 織り成す 織り成す

 めくるめく佳境とも言えるフーガが突然終わりを告げる
 そして 合唱団は低く重厚な声と 高く清澄な声で
 万物に向かい
 「兄弟よ 星の彼方に 愛する父(神)が住んでいるに違いない」
 と説得する

 しかし オーケストラは
 慌ただしい日常を思い起こさせる様に
 速やかに動き出す

 四人のソリストも せわしなく
 すると合唱団もつられる
 突然 誰かが大声で叫ぶ「全ての人々よ」
 一瞬 静まり返るが また日常に戻そうとする
 その鬩ぎ合いの中
 再度 「全ての人々よ」「全ての人々よ」と繰り返す

 それを聞いたソリストの女の一人が
 泣く
 つづいて 男が
 泣く
 四人のソリストが
 泣く 泣く 泣く 泣く

 最後に
 ソプラノの悲痛なまでの泣き声を聞いたオーケストラは
 一転 楽しげな踊りに変貌する
 
 ピエロの様に舞い 祭囃子の様に跳ねる
 そして歌は踊り
 笑う 笑う 笑う 笑う

 更にオーケストラは音を繋げ合唱団に促す

 最終歌  クライマックス
 「天上の楽園からの乙女よ」
 「歓喜よ、神々の麗しき霊感よ、神々の霊感よ」

 フィナーレのオーケストラは
 歌い終わった合唱団員自らの余韻を残す為
 どこまでも 早く 早く 終わらせようとする

 そしてプレストの五音で 終わった

 万来の拍手がこちらに向かう
 
 ステージ上は
 指揮者  四人のソリスト  オーケストラ  合唱団
 
 そして 合唱団の中の  私は

 
 ただ  立ち竦んでいた。


「第三楽章」はロマン派の確立と言われ、後の全ての作曲家に影響を与える
この楽章の前で人間は皆、無力にそして平等に呼吸し鼓動している事を思い知らされる
ニ短調で始まり ニ長調で終わる構成は「苦悩を突き抜け 歓喜に至れ」の如く、合唱団の為にあると言える
そして優雅に身体を滑らす白鳥も、その水面下で慌ただしく動かす足ひれが様の
オーケストラの存在あっての 実存である。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは  この曲を        
聞いていない
そして私が題付けるならば 『包容』交響曲。